歴散談話室

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[78] 卍隊のこと

投稿者: 歴史散策会広報部 投稿日:2016年 6月 7日(火)21時23分25秒 softbank060076156053.bbtec.net  通報   返信・引用

どっちが徳か? 関宿藩の苦悩・・・
=歴史散策会/関東の戊辰戦争⑧「上野の戦い」

2016.6.5

歴史散策会の「関東の戊辰戦争」シリーズは、 ①15/3/28「流山/新選組」~②15/4/29 「梁田の戦い」~③15/6/21「市川船橋の戦い」~④15/8/15「靖国神社」~⑤15/9/26「小山の戦い」~⑥15/10/25「宇都宮の戦い」~⑦15/11/7「飯能の戦い」と、今回の「上野の戦い」で8回に及ぶ。

 戊辰戦争は、歴史ファンの中でなかなか根強いものがある。
しかし、その多くが、会津戦争か箱館戦争で、人物的には、坂本龍馬、西郷隆盛、土方才蔵くらいで終わりとなる。 「関東で戊辰戦争があった」というと、多くの人は怪訝そうな顔をする。 「江戸は無血開城されたので関東での戦いはなかった」とか、「明治維新は一滴の血も流さない無血革命であった」などと真顔で話す識者/学者まで居る有様である。
 当会は、巷にあふれ、定説化された戊辰戦争を、「純軍事」的な側面方から「史実」に迫ることにした。 色つけしないで歴史に迫ることは、とても辛く困難な作業であった。 あえて「常識人」のご理解は期待しなかった。 余りにも悲惨で信じられない史実や地域的な利害や感情の壁に直面した。 地元の郷土史会や歴史会等の無認識さ/不勉強さに何度も愕然とさせられた。 往時の若者の血がこんなにも流されたにも関わらず、資料が残っていないというのも、「何か奇妙」であった。 まるで「真実を知られてはまずい」「真実は知りたくない」とでも言わんばかりであった。 それでも、勇気ある歴史好事家や若手研究家や軍事研究家の貴重な資料から、一つ一つ、「その戦場と戦闘の詳細」を探っていった。 鳥羽伏見で戊辰戦争が始まり、何かの弾みで、たまたま薩長軍が勝つと、全国の藩の間でどっちに付くかで動揺が広がった。 どっちに付くかで、真っ二つに割れ、血みどろの抗争にまで発展をしていった藩もあった。 「江戸城の防御地点の一つ」を受け持つ関宿藩も事情は、同様であった。
関宿藩では、久世広周(ひろちか)が、第7代藩主となった。 広周は、藩士/船橋随庵を登用して用排水路「関宿落とし」を建設して水害防止対策を講じた。 さらに嘉永4年(1851年)には老中に就任し幕政に参与した。 広周は、「開明的な開国派」であった。 安政5年(1858年)の日米修好通商条約の調印に賛成した。 しかしその後、大老となった井伊直弼の「安政の大獄」に反対した結果、老中と外国御用取扱を罷免させられた。 この頃の藩政は、杉山対軒らにより良好であった。
1860年/万延元年、直弼が「桜田門外の変」で暗殺された。 広周は、安藤信正と共に再度老中に返り咲き、幕政を執行する。 1万石を加増され6万8000石となった。 広周は、直弼の強硬路線から変更し「公武合体運動」を推進した。 1862年/文久2年、和宮の降嫁に尽力する。 この一連の動きは過激な尊皇攘夷派や幕府内でも反感を生み、同年に「坂下門外の変」が起った。 信正が失脚すると、広周も同年6月に老中を罷免された。 増加された1万石は取り上げられた。 家督を10歳になる広文(ひろふみ)に移譲させられ「蟄居謹慎処分」となった。 更に「永蟄居処分」を受け、1万石を削減された。 広周は、失意のうちに1865ねん/元治元年6月に死去した。  広周死後、関宿藩は、佐幕派と尊皇派に割れ、佐幕派は、卍隊として、彰義隊に参加した。 「卍」が、久世家の替紋(※2)なので、卍隊(萬字隊)と命名した。 藩内からは、彰義隊に加わる者などが続出した。 その数100名以上にも登った。 同年5月、広文は、新政府から5000石を削減され、「強制隠居」を命じられた。 関宿城外曲輪の焼失事件が起った。 奥原秀之助が、隊長となり、開戦当日は、近藤武雄が戦闘の指揮をとった。
彰義隊は、一組を25人とし、組毎に組頭、副長、伍長を置いた。 その二組に隊長一人を置いた。 50名を小隊で、1番隊~18番を編成した。 付属隊は、歩兵隊、砲兵隊があった。 総戦闘力は、50名×18隊=900名となった。 他に諸藩で組織した遊撃、純忠、臥竜、旭、神木、浩気、猶興など各隊があった。 彰義隊は、3000名以上に膨れ上がったと言うが、「残る2000名の隊士は部隊編成をされていたのか?」、ギモンである。 当日の戦闘では、約1000名が参戦したという。 そのほかの2000名は、直前に「トンズラ漕いだ」のか?
5月15日午前6時半に開戦。 卍隊砲兵隊は、山王台に陣を布いた。 現在の西郷隆盛像の付近だ。 当時、上野の山門は、八門(黒門、新黒門、穴稲荷門、清水門、車坂門、屏風坂門、谷中門、新門)があった。 当日の戦闘では、彰義隊の半数以上が集中した「黒門の戦い」が最も激烈を極めた。 山王台の卍隊が、黒門口の官軍に砲撃を浴びせた。 官軍の死傷者が続出し戦線は膠着状態となった。 官軍は、右翼からの突破を試みるが失敗する。
官軍砲兵部隊が、不忍池を挟んだ東大の台地から「最新鋭のアームストロング砲」(?)で、山王台の卍隊に攻撃を開始した。 これにより、昼過ぎには彰義隊は総崩れとなった。 卍隊は、「5名が戦死、11名が傷を負った」と、いう。 上野戦争後、生き残った卍隊は、会津攻防戦に参加していった。 会津落城で、捕虜となった卍隊兵士は、「罪科一等を減ぜられ、居宅謹慎」処分となり、関宿藩へ引き渡された。 藩勤皇派の杉山対軒は、明治2年4月20日、江戸からの帰り、並塚(埼玉県北葛飾郡杉戸町)で、藩内佐幕派により暗殺された。 顕彰碑は、野田市/光岳寺に在る。 木村正右衛門は、上野の戦場を若き藩主/広文と脱出し佐倉に逃げた。 その後、沼津市へ移り、同市の兵学校教頭となった。 山田大夢と改名し、静岡県師範学校の初代校長を務めた。
上野戦争の官軍の中には、同年4月6日の「船橋の戦い」で「強姦/略奪/放火/神仏破壊」をした佐土原藩部隊がいた。 あまりの悲惨さに、船橋では未だに語り継がれている。 維新後、同藩は、戦功で三万石が与えられた。 佐土原藩は、薩摩藩の支藩(佐土原島津家)で、今の、宮崎市佐土原町に当たる。 彼らは、「聖戦」を掲げる「天皇の軍隊」であった。

戦死した卍隊戦死者 戦死日は、1868慶応四年5月15日で、場所は上野山で同じ。
百瀬雄二郎 黄二番隊隊長  享年不明
奥原秀之助 隊士  享年23歳
篠崎松三郎 隊士  享年不明
丹羽十郎左衛門 隊士 享年不明
渡辺彦十郎 隊士  享年不明  他・・

彼らは、何のために戦って死んだのか? 勝つ見込みもない戦いに何故挑んだのか? 崩れ行ゆく徳川政府の最後の首班に、その恩顧に応えるべく散っていった。 その目的は、「新しい日本」のためでは無く、あくまでも「徳川家親衛隊」としてだった。 戦闘技量もその政治的イデオロギーも、他の幕府正規軍の「国軍」とは異なる。 極めて「限定的且つ政治的」なもので、軍事的に稚拙であった。 所詮は、12000名もの重武装の「官軍の敵」ではなかった。 彰義隊の敗北は、維新後に、「天皇に逆らった賊」として、不当なまでに「政治的プロパガンダ」に利用された。 260名に及ぶ彰義隊の戦死者の意義は、来る「天皇制大日本帝国」の「正当性の根拠」に利用された。
負けることが分かっていながら最後まで戦った例が、独ソ戦にあった。 ベルリン攻防戦である。 押し寄せるソ連軍に、国会議事堂に最後まで立てこもり徹底抗戦したナチスWaffen SS (武装親衛隊)の「外人部隊」である。 それは、フランス義勇兵の第33師団「シャルルマーニュ」とノルウエー他北欧民族の第11師団「ノルトラント」の二つの外人部隊であった。 これらの「戦闘師団」は、「ドイツ国防軍」とは、別系統である。 彼らは、「ドイツ」のためにでは無く、「ヒトラーと第三帝国(Das Dritte Reich)」に忠誠を誓い、戦った。 「半ユダヤ主義」「反共産主義」を掲げる「ヒトラーファンクラブ」に、ドイツを初め全ヨーロッパ並びにスラブ、イスラム、インドからも多くのオトコが参加した。 その数90万人! 国と民族別に「40個師団」が編成され、前線に向かった。 背景には、当時、独ソ間には、「反共十字軍と国際共産主義」の対立構造があった。 不幸にも生きて捕まったSS将兵らは、戦車の前に並べられ踏み潰されていった。 ドイツ軍を破ったソ連軍は、各地で少女から老婆まで、片っ端から強姦していった。 その数、「公式」に200万人に昇る!?  勝ち誇ったソ連は、その46年後の1991年に、あっけなく崩壊していった。
何の青写真も持たず武力クーデターで日本を掠め取った薩長=「天皇制大日本帝国」も、その78年目にもろくも「自壊」していった。 止めの介錯は、「2発の原爆投下」であった。 天皇は、戦後、1964年(昭和39)12月4日、ルメイ米空軍少将(空軍参謀総長)に「勲一等旭日章」※を授与した。 私が10代の頃、「ニッポンは、負けて良かった! もしニッポンがこの戦争が勝っていたらとんでもないこと(!?)になっていた!」と多くの大人が口を揃えて言っていた。
「国体(=天皇制)」への「必勝の信念」で死んでいった270万人とも310万人とも言われる「魂」は、どこにいったらいいのか? 一体、何のために、誰のために死んでいたのか?
靖国神社(=招魂社)には、「天皇の為に戦場で敵(=賊)により殉死した兵士らの霊魂のみを祀る」という「教義」がある。 天皇が、「その霊魂」(=神様)に膝まずきこうべを垂れるという約束事がある。 その天皇(家)は、「その霊魂」(=神様)に、今や近寄ろうともしない。 「靖国神社」が存続する以上、その「教義」は決して消せるものでは無い! それが、長州らが作った「招魂社」⇒「靖国神社」精神(ドクトリン)ではなかったのか? 「戊辰戦争」は、正当性の無い国内戦を無理に仕掛け、軍事クーデターで「国を掠めとった」官軍/薩長に対する負けた側からの「歴史の正当性」の答えの一つとなる。
靖国神社は、戦死者の全てを祀る存在では無い。 「天皇のため」にという「特約事項」が付く。 現の日本人は、全く誤解している。 幕末に、「日の丸」を掲げ、「官軍」と戦いで死んでいった「日本国軍」=幕府軍の将兵の「霊魂」は、未だに祀られていない。 「大日本帝国臣民」の「朝鮮/台湾族日本人」(5万人)の霊魂を遺族の要請に反し、靖国神社は、未だに取り下げない。 彼らは、「天皇のために殉死した」ことになっていて、靖国神社側としては、祀られた祭神を降ろせと、今更、遺族から言われても、その「教義」と「神社」の存在がある以上、決して降ろそうとはしない。 今では、「台湾」と「韓国」だが、当時は、当時は、「大日本帝国」と一つの国家であった。 台湾人も朝鮮人も日本人も等しく「天皇の臣民」(=国民)であった。 「靖国神社」は、殉死者に対しては、民族を越え「恐ろしくも平等」であった。
 勃興する「植民的帝国主義」の末席に乗り遅れまいと、「尊皇攘夷」を「八紘一宇」の旗に持ち替えて、戦争を継続させ、対外的に拡大させていった。
死しても尚且つ善悪/正邪を峻別する「国家哲学」は、維新前の日本には無かった。 いったい誰が、「こんなもの」を考え、造り出したのか? 「受益者」は、いったい誰だったのか? 「終戦」時、GHQに没収された天皇が「私有」する土地は、長野県の広さに匹敵した。 維新時は、ほぼゼロに近かった。 これも、「戊辰戦争」の答えの一つとなる・・・

※1 替紋(かえもん) 定紋(じょうもん)に替えて用いる略式又は装飾の紋のこと。
裏紋とも副紋ともいう。
※2 「勲一等旭日大綬章」は、1875年(明治8年)4月10日、勲章制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)に基づいて制定された。 大綬を右肩から左脇に垂れ、副章を左胸に付ける。 受章者は、1220名(戦前810名、戦後410名)となる。 叙勲対象者は男性のみ。


「上野戦争と彰義隊」をもっと身近にするために、本と映画をお薦めしたい。
森まゆみ『彰義隊異聞』(新潮文庫 平成20年 590円)と江戸研究家でマンガ家の杉浦日向子原作、小林達夫監督の映画、『合葬』である。
この映画は、2015年9月26日に公開された。 一見退屈だが、何度も見れる味がある。 「幕末の江戸、将軍の警護と治安維持を目的に結成された彰義隊は市民たちから厚い信頼を寄せられていたが、幕府の解体により反政府的な立場へと追いやられた。 将軍/慶喜に忠誠を誓った極は、友人/悌二郎の妹との婚約を破談にしてまで彰義隊に身を投じる。 一方、極と悌二郎の幼なじみである柾之助は、養子先から追い出され、行く当てのないまま彰義隊に入隊する。 また、悌二郎は彰義隊の存在意義に疑問を抱きながら、運命を翻弄されていく・・・。」 と時代に翻弄された「彰義隊」の若く儚い一生涯描く内容である。




[77] 高麗王・若光ウォーク 4日間95キロ

投稿者: 街道宿場ネット 投稿日:2016年 4月 4日(月)06時32分52秒 p6e4277e8.tkyea108.ap.so-net.ne.jp  通報   返信・引用

去る4月17日、歴史散策会のイベントで神社研究家のM氏から埼玉新聞の切り抜きを渡されたまますっかり忘れていた。ナント!4日間連チャンで95キロ走破というクレ~ジさが、これマタ、エグイ! 面白そ~うなウォークイベントなのでお知らせしたい。オッと、締切が4月16日と近い! 当人は、平日は無理なので、休日の29日を予定している。機会があれば現地で会おうゼ!

2016年4月26日(火)~29日(金)
大磯/高来神社~日高/高麗神社 (4日間/連チャン 95キロだ!)
「高麗王・若光ウォーク」

4/26/火 大磯駅~相鉄/海老名駅 22キロ
4/27/水 相鉄/海老名駅~JR橋本駅 22キロ
4/28/木 JR橋本駅~JR福生駅 25キロ
4/29/金 JR福生駅~高麗神社 26キロ

参加費;1000円(2日~4日フル) 500円(一日参加もOKだ!)
問い合わせ;一般社団法人・高麗1300事務局
      350-231  埼玉県日高市鹿山323-1231
      T;042-978-7432 F;042-978-7452







[75] 日本近代史幻想

投稿者: 伝習隊兵士 投稿日:2016年 3月17日(木)23時33分17秒 softbank060076156053.bbtec.net  通報   返信・引用   編集済

「もし明治維新がなかったら日本の近代化の速度は大幅に遅れをとっていた。」
「江戸時代という体制に暴力的にでも終止符をうたなければ近代化はなかった。」

私も含め未だに多くの日本人の意識のなかにはかような思い込みが存在しています。
ではなぜどのようにその思い込みが植え付けられたかという疑問に対する一つの答えを
提示してくれる本を読みました。「明治維新という過ち」(原田伊織 著/毎日ワンズ社刊/¥1500)です。

「もし明治維新がなかったとしても日本の近代化の速度も質もさほど遅れをとっていなかった」
「江戸時代という体制に暴力的終止符をうたなくても近代化は実現できた」

読後、そんな感をいだきました。明治維新を歴史上、近代化のためには必要不可欠の要因であったと
多くの日本人に思い込ませている教育(TVドラマや歴史番組、なども含めて)の怖さ、ひょっとして現代中国や
韓国の歴史教育と相通ずるところありではないのかとも思えてしまいました
いまこの時代に読んでみて価値ある一冊だと思います。



[74] 建国記念日

投稿者: 有毛ハイマー 投稿日:2016年 2月24日(水)19時40分27秒 p6e42ab54.tkyea108.ap.so-net.ne.jp  通報   返信・引用

ジンムヒミコ氏の「ケンコクノヒマンザイ」は、面白かった。 この日は、毎年「フ~ン・・」と通り過ぎ、「休日」を楽しんで来た私をチョッとマジにさせた。
 当日、私もテレビで國學院のセンセイの「発言」を、無感動に聞いていた。 何か、ピ~ンとこない違和感がそこにはあった。 神話に基づいた「建国記念日」をあえて、現在の「国民国家」のそれに当てはめようとする「受益者」が、今確実にいると思うと「不信感」と「不快感」がムラムラと沸き起こってきた。

「2月11日」・・ そう、かつて「大日本帝国」の「建国記念日」であった。
 1873年(明治6年)2月11日、日本国の建国の日として「紀元節」と定められ祭日となり、翌年から適用された。
戦後、私が生まれた1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止された。 私が、2歳~5歳の1950年6月25日~1953年7月27日の間、朝鮮戦争があり、その最中に、私が3歳だった1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が結ばれ、「新生ニッポン」が独立した。 その後、私が18歳の1966年(昭和41年)に、2月11日が復活し、国民の祝日となり翌年から適用された。
 あくまでも私だけの勝手な意見であるが、日本が連合国から「独立した日 9月8日」が、いまの日本の「建国記念日」と思っている。 「東京裁判」や「憲法9条」に不満はあってでもある。
1945.8.15(9.2)~1951.9.8の7年間は、日本は国家としてこの地上からは「消滅」していた。 1868年の薩長土肥がクーデターで樹立した「大日本帝国」の「77年間の一過性の国家」は、その「天皇制」イデオロギーとともに軍事崩壊をした。
 古事記や日本書紀で初代天皇とされた神武天皇の即位日(紀元前660年1月1日 (旧暦))を明治期に新暦に換算した2月11日を1873年(明治6年)に「建国記念の日」とした。 そして翌年から「紀元節」と定められた。
いずれにせよ、神話は神話、政治は政治である。 薩長による「尊皇攘夷」運動の具現化で、直系の軍隊を持たなかった天皇に軍服なぞ着せ、「皇軍」などと「私兵」を作り、日本を破滅の際に導いた「薩長的大日本帝国」のような戦前に戻すようなことは絶対にあってはならないと思う。 それこそ「天皇陛下マンザイ~!」となってしまう。 天皇を政治に引き込まない「新たな有武装中立的な民族国家」を目指すべきと思う。 ニッポンは、米ロ中の様な大国の「イヌ」には、決してなってはならない。 大国ロシアに徹底抗戦した小国フィンランド。 天皇などいなくても、国家としても民族としても生き残った。 生き抜いた彼らの民族的なプライドには、すごいものがある。
オッと、これ以上は、止めとこ~と!




[73] 建国の日万歳!

投稿者: ジンムヒミコ 投稿日:2016年 2月11日(木)20時47分7秒 softbank060076156053.bbtec.net  通報   返信・引用   編集済

建国の日万歳、さてなんと読むのでしょうか?
”ケンコクノヒマンザイ”と読みます。TVニュースを観ていましたら二人の大学の先生がいつも通りの
左右マンザイを演じておりました。片や、国学院大学の先生そして片や千葉大学の先生。
国学院大の先生曰く
「世界中どこの国でも自国の建国を祝わない国はない、よって日本も祝うのが当然である。」
要旨、このような言い分です。
いつも不思議に思うのですが2/11がなぜ日本建国の日なのかその根拠は?と問われてこの先生いったいなんと答えるのでしょうか。
まさか古事記や日本書紀にそう書いてあるからとでも答えるのでしょうか?
考古学のメッカを自負する大学の先生ともあろう人がそんなことは言わないと思いますが・・・・。
遺跡や遺物によって検証できない事は仮説としか扱わないのが考古学なのでは?そんなの私のような
素人でもわかります。
要するに日本にはアメリカ合衆国やアフリカ諸国のような建国の日など無いのです。
ファンタジー史観の韓国や北朝鮮でも壇君が古朝鮮を建てた日を建国記念日とはしていないはずです。
日本は3~5世紀にかけて自然に緩やかに形造られた国、それでいいではないですか。
一方、千葉大の先生曰く
「戦争の犠牲になった人々の思い・・・云々、このような戦争に結びつく考え・・・云々」
と繰り返すのもウンザリの”進歩的知識人様(現在では死語)”の思考欠落論法です。
建国記念日がなんで戦争に結びつくの?たぶんこのタイプはそんなの当然といわんばかりに
「建国記念日」「靖国神社」「君が代」「日の丸」「天皇制」エトセトラetc、そんなものはすべて
戦争や軍国主義へ導く呪文のごとく言うのです。
歴史を5分10分の短いスパンでしか観られないタイプ。

健国記念日、靖国神社、日の丸、天皇制ーーー>国ならあって当然ーーー>日本人なら祝って当然
   ーーー>疑問を持ったり、納得できない人はいないはず(どっこい、いっぱいいるぞ)

健国記念日、靖国神社、日の丸、天皇制ーーー>語感にアレルギ-ーーー>再び戦争を起こしてはならない   ーーー>良心的日本人なら反対するのが当然--->疑問を持ったり、納得できない人は
                          いないはず。(どっこい、いっぱいいるぞ)

この2人のようなタイプに共通するのはーーー>の部分の思考回路が欠落しているのです。
ゆえに万歳=まんざい、です。
不思議と以上のような疑問を持ったり言ったりする人はニュースや報道番組には取り上げられません。
あたかも、国学院の先生タイプと千葉大の先生タイプだけが日本人の意見と感違いしているようです。
このての題材の報道を観ているといつも「視聴者を見くびるなよ」と思うのは私だけでしょうか。



[72] ミサイル発射

投稿者: northFATman 投稿日:2016年 2月 9日(火)21時08分10秒 softbank060076156053.bbtec.net  通報   返信・引用 > No.60[元記事へ]

兵器や武装には悪魔的魅力があるようです。北朝鮮の「刈り上げおデブちゃん」のようについついもて遊んでしまうのも人間の業というものなのか。
> 危うし危うし。


やはり「刈り上げおデブちゃん」は兵器中毒患者のようです。
業も極まれりという感じがします。



[71] (無題)

投稿者: 歴遊宿場ネット春日部 投稿日:2016年 2月 3日(水)10時08分16秒 p7967281b.tkyea108.ap.so-net.ne.jp  通報   返信・引用

早くも同じ春日部の住人から、同名の「ネット」の反応があった!
ご自分の会の案内広告だ。フツ~はしないものだが、手段を選ばずその貪欲さが頼もしい。
情報発信の「楽市楽座」と行ましょう! よろしくね!
ところで、こちらは、いつも世話になっている公共機関の「宣伝」となる。

 A 春日部郷土博物館主催 歴史講座「春日部の歴史」 問い合わせ先:048-763-2455
①2月27日(土)13:30~17:00「春日部の歴史 古代/中世」
②2月28日(日)13:30~17:00「春日部の歴史 近世/近代」
場所:春日部市教育センター2F 視聴覚ホール
定員:100名(申し込み順)

B 春日部市立中央図書館 「歴史の中の旅とかすかべ」  問い合わせ先:048-761-5911
日時:2月20日(土)10:00~12:00
場所:春日部市教育センター4F 研修室1
定員:40名




[70] 歴史が好きな人へ

投稿者: 歴遊宿場ネット春日部 投稿日:2016年 1月30日(土)17時38分0秒 p9210-ipngn1801souka.saitama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

春日部で歴史が好きな人が集まり春日部ふれあい歴史塾を開催している。会員は52名、聴講生は10数名で
運営。上半期(4ー9)は講師を招いて受講。講師は久保先生(元埼玉県立高校教諭)で昨年の講座のテーマは
「明治坂の上の雲の時代を再考する」で中身のある講座であった。下半期(10ー3)はそれぞれの会員が
自主活動の発表を52名が発表する場。発表会3回目の1月26日(火)、聴講生としてあまり期待しないで聞きに行った。当日は発表者は6名で一人当りの持ち時間20分。うち2名の出来が素晴らしく感心した。
一人は男性、テーマは「関東郡代・初期伊那家と河川改修」丁寧な調査内容でしっかりまとめた力作であった。
もう一人は女性でテーマは「日本の公園の父、本多清六」。私は埼玉出身の偉人、本多清六の名を初めて知った。世にあまり知られていない偉人を取り上げ、克明にまとめ上げており、感服した。お二人に共通しているのは、郷土の歴史を丁寧に調べ上げて、自分のものとして発表しており素晴らしかった.
尚、発表者全員、共通してパワーポイントで画像・イラストを自在に使いこなしているには驚いた。
会員の平均年齢74ー75歳。恐るべし老人パワー。男女比率ほぼ同じ、高齢者の歴女健在なり。
暇で歴史が好きな人へ。新会員募集は3月予定です。開催は月2回。春日部の閑人より





[69] 感謝!感謝!

投稿者: 中澤慎一 投稿日:2016年 1月26日(火)21時35分56秒 p9210-ipngn1801souka.saitama.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

諸先輩方から過分な労いのメッセージを頂きまして恐縮いたしております。
初めての案内人の為、正確に上手くご説明できず、又あらかじめ考えていたことの
半分ぐらいしかお伝えできず、忸怩たるものがありましたが、皆様のエールに
感謝申し上げます。申年の私はおだてに弱くすぐ木に登るタイプで、もうその気に
なって、次回の題材を探そうと思っております。皆様に感謝!



[66] 今日一番の感動

投稿者: 落ち目落石 投稿日:2016年 1月24日(日)22時20分41秒 softbank060076156053.bbtec.net  通報   返信・引用   編集済

「夏目漱石と神楽坂」少し風がさむかったが天候にも恵まれ楽しい散策でした。
神楽坂の迷路、あんなに奥深いとはおどろきです。またコース沿いに点在する
歴史上有名人の墓所、史跡とそのエピソードなどなど十分エンジョイさせていただきました。
案内人Nさんがテーマに対しよくぞここまで調べたなあと感嘆いたしました。
そして本日一番の感動は史跡でも夏目漱石でもありません、Nさんが手書きでビッシリと書き込んだ
下調べノートとテーマに対する取り組み姿勢でした。
最近、己の判断能力や発想力の低下にいらだちを感じ、老いに対する漠然とした不安を持ち始めた
私にそのノートが何か元気と勇気を改めて教えてくれたような気がしています。
次回、案内役を務めますがNさんに遠く及ばないようです、でも我は我なりの開き直りで私も
下調べノートを作ってみようと思っています。




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